読む法話

光明寺 臼井 教生(音更町)

「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」

 6月に入り、大地の緑と青い大空、日高山脈から大雪山系のところどころの頂に残る残雪の景色が美しい季節になりました。皆さんは、いかがお過ごしでしょうか。

 昨年の4月より、町内の交通安全指導員という、通学・通勤の歩行者が安全に横断出来る様に誘導するボランティアをさせていただいています。

 応募した理由はというと、「親子でお育てをいただきました」という地域への感謝の思いと、お寺に住んでいますので通勤時間が無いために、「お手伝いの出来る時間がある」という事からでした。ネクタイを締め、貸与されている制服を着ると、大変気持ちが引きしまります。

 

 私が担当する場所は、お寺からすぐの国道交差点であります。朝7時20分頃から8時頃まで街頭に立つのですが面白いもので、その時間帯に通学する学生や通勤する方々は勿論のこと、通過する車種や運転者の顔もわかってくるものです。

 ほんのひと時ではありますが、通学や通勤する方々との「おはよう」の挨拶や、通行する車内から手を振ってくれたり、会釈してくれる方がいたりと、大変に気持ちのよい一日のスタートを切らせていただいています。

 

 その様な中で、私が常々お見送りしながら思っていること願っていることは、「夕方、無事に家に帰ってきてね」ということであります。

 

 本願寺第8代蓮如上人がお書きになられた御文章(おてがみ)の中の一つ『白骨章』の中には、

「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」

と記されています。

 意味としては、「朝、元気だった若者が、日暮れには何の前触れものなく冷たい亡骸となってしまう身」という、大変に厳しいお言葉であります。

 無常の風が吹いて、この私のいのちを支えている条件が一つでも欠けてしまうと、一瞬で命を終えてしまうのがこの私の身なのだよ」と、蓮如上人は書き残して下さいました。

 

 コロナ禍における不安と不自由な日々は一方で、今まで「当たり前と思っていたことが当りまえでは無かった」ということなど、沢山のことを思い出させてくれたり、気付かせてくれた日々でもありました。

 年齢に関係なく、いつ終えるかもしれない、今この瞬間をいただきながら生かさせていただいている私の“いのち”に感謝しながら、仏教徒として日々の日暮しを送らせていただきたいと思います。